昭和45年10月21日 朝の御神訓



 御神訓 一、「信心してみかげのなき時はこれぞ不思議なることぞ。」

 おかげを絶対のものとして、教えておられますですね。おかげは絶対のものだということ。・・・・・御教え下さってあるという事は是をまず、絶対のものと信ずる事です、金光様の御信心は。ただ駆引きとかいい加減な事ではない、絶対のものとして先ず信ずる。ですからこの御教でも信心して霊験のなき時は、是ぞ不思議なる事ぞと仰る。本当に不思議な事。その不思議な所をひとつ分からして貰わなきゃいけん。
 受けられるのが当たり前であるのに、受けられんというのは、不思議な事。そこでその不思議なところを自分の心に問うてみる。自分の神さまに向かう姿勢を改めて正していく。信心してとこうおっしゃるが、自分の頂いておる信心は、果たして、教祖の仰る信心になっておるであろうか。ここでは信心ということは、信ずる心と・・・・ね。・・・・?信心して、信心と書いてある、信ずる心と書いてある。そこで信心して霊験のあるという事。霊験があるといういこと。やはり願いという事。
 神さまにおねがいをするという事。お願いをして、神さまが聞き届けて下さらないはずはないと、信ずる事。それをおかげ頂くかもしれん、頂かんかもしれん、といったような言わば考え方というのは、それは半信であり、半疑である。半分を信じて、半分を疑っておるのである。そこでです、ね、信じて疑わんで済む事の出来る修行が、どうでも必要になってくるのです。
 信じて疑わない修行。ね、これは、私が北京から引き揚げて帰って間もなく、三井教会の初代荒巻弓次郎先生の式年祭、何年祭だったか、十五年祭だったでしょうかね。そのために奥城の清掃に毎日・・・・?まあ、私を中心に清掃をしておりました。皆さん御承知でしょうけれども教会の裏の竹藪の中にございました。それがね、きれいにお掃除させて頂いて、そこへ砂をまこうという事になりましてね。それで後ろに石炭箱を乗せて、石炭箱は自転車に乗せて、ま、何回も浜に砂をとりに参ります。
 丁度墓の下の竹藪がこうあって、そのこう道を通って行くと遠道になりますから、その竹藪の所を分けて田の中を入ってこう行くと近いもんですからね、その上から下へ飛び降りたんです。途端にその竹をこう切ってあって、切り株の上に足をこう持っていったんですよ。もうそれこそざっくりざくろのように足の裏がこうなった。まあちんばちんばしながらそれでも、御用させて頂いたのですから最後までおかげ頂きました。
 まあその時分の私の信心というのが、今日皆さんに申しますように、信じて疑わないという稽古を一生懸命にさせて頂いておる時でした。ね、神さまを疑う信じて疑わんで済むおかげを頂きたいと、こう言うのです。私共のばばが子供の時、ころんでひざを割ったり、いろんな傷やら致しますとね、もう生神金光大神さま、天地の親神さまと言うて、お土をこう血の出る所につけてくれたもんです。
 それはもう、確かにおかげ受けたですねぇ。それは科学的にもやっぱりあのお土の中には、そういう傷を癒すような働きがやっぱり有るそうですね。そりゃまあですたんですけれども。そういうことを聞いております。ですからねたとえ泥畑の中の泥がここにま、いっぱいつまってるです。わくわくしたとが裸足ですから。そから砂が入りますですね。けども、天地の親神さまのいわばお土であり、いわばお体であり、それを傷につけておるような気持ちで痛い時には、そういう無理にでもそう思うてね。
 終日の御用終わらせて頂いて、もう教会出る時にはちんがちんがしてどうしても歩けんのです。あの時分は、もう親先生のおっしゃる事は、もう本当に神さまのおっしゃる事でしたからねぇ。もう皆が帰ってしもうて、最後まで御用させてもらって、私一人になりました。そしたら、あの「大坪さん、風呂が湧いているけん、風呂に入って行け」とおっしゃるんです。そういう時にですねぇ。
 いいやもう今日は、こげな風で傷ついとりますけんで、今日はお風呂は、もうご無礼しましょっというような事じゃなかったですね。もう神さまがおっしゃるんだと思うとりますから、もうそれこそ「はい」 ね、それから、水できれいに洗って、中には泥がいっぱい入っておる、それでやっぱりお風呂入らせて「生神金光大神、生神金光大神」と一生懸命。おかげを頂きましたでっすね。
 もう本当に不思議な位におかげを頂きましてねぇ。もう傷口が何日かぐらいにはおかげを頂いて、つうが出来てもう、ほじりがある位にありました。もう毎日毎日、お風呂にもつける、ね、いわゆる神さまのお水、神様のいわゆるお水に頂くという気持ち。まあ、泥は入ったままですよねぇ。こう中から入っとるです。それでもう、きれいにおかげを頂いたかのように見えた。もう、つうが出来てかゆうなった。
 そこでそのもうおかげ頂いたと思うてこう掻いてつうがとれた後にお風呂に入らせて頂いたんです。もう、それまでに私の心の中に感じる喜びというものは、なる程神さまは、おかげ下さるなあという事でいっぱいでした。薬という事もいらん。何という事もいらん。そして、その風呂に入っても普通でなら風邪?とでも言うのでしょうかね。今度はもういよいよあとすぐで治るというそのごじゅうがゆうなってから。
 今度は化膿しだしました。それが、やっぱりひと月位かかりました。化膿しだしてから。それでもね、それでもやはりこちらの信ずる力が足りんのだと思うて神さまへお詫びさせて頂いて、どうでもあなたのおかげで良くならしてもらわなければね、といういわゆる神さまを信じて、疑わないで済む稽古をそのようにして一生懸命させて頂いた。段々おかげを頂いて、もうお商売が出来なくなってからこっち。
 中島の上滝さんの所が、ね、こういう病人さんがあるからというので参りましたら、もう本当にあの世に行く方がもう本当に確実に行くわけですね。皆さんも承知でしょうけれども、あの時の医大の結核の権威と言われる、何とかという先生がみえられましてねぇ、わざわざ。そして、もう本当に時間の問題だと言うて帰られたんです。そういう前後しての事でした。私があそこへお話に参りますようになったのは。ね、
 神さまはね、私共の言わば、この命を与えて下さる。この肉体を作って下さる。ね、その言わば、神さまにお願いをして例えば、修繕が出来ん事はないという風に、私共はお説教で頂いておりましたからね。だから、私はそれを実証させて頂く、もうこよない言わば、チャンスに思われたと思いましたね。どうでも、この病人を助けてもらわねばね、私があなたをこれから、疑い出す事になる神さまを。
 どうでも為には、この病人をひとつ助けてもらわなければ、私のこれからの信心にゆるぎがくる。その為には神さま、私はどげな修行でもしますという訳でした。そげんでしたよ。それが見てごらんなさい。あのような、それこそ奇跡の中の奇跡と思われるようなおかげを頂いたんですからね。そのようにしてですね、私共は神さまを信じて疑わない修行というものが必要であるという事が分かりますね。
 同時にこれをですねもう願ったから最後だから、どうでもこうでもという、どうでもという信心の姿勢がどうしても必要です。前夜祭が終わりまして、もう十一時頃だったでしょうか。北野の深町さんがもうこう泣き出さんばかりのごとある顔でここへやってきました。「先生、えびを頼まれ鯛をぶりを頼まれております」と四人から頼まれとる。・・・?それぞれに。
 もうそれこそ、引き受けたごとしったら、どっこいその久留米にぜんぜん鯛が上がらない。思うとるようなぶりがない。えびはなおさらない。福岡も自分の知っておる限りの所へ全部、博多の方にも電話かけたけれども無い。ま、あなたほかのもう準備が、たから、私が前夜祭の時、皆さんにお話申しました時にです、ね、普通なら、もう用意万端整うて、この前夜祭を仕えると、仕えたと私がいつも申しましょう。
 ところが、ね、私がまだ、仕え終わったとは申しませんでしたでしょうが。その魚があったからです。まあだそれこそもう来るやら、来んやら分からないのですよ。勿論、だから私もだから願わせて頂いて、まあ言うならば、そげなはずはないと確信しておりますけれどねぇ。そういうところへ肝心の魚屋がそう言うてやって来たんですからねぇ。だから、深町さんちょいとおいでち、神撰室へ私は連れて行きました。ね、「あのお鏡さんを見なさい」ち言うた。
 今までいつも七升五合のお鏡さんじゃったのが、まあ、お供えする人が餅屋に頼んだ、その餅屋が間違えた。間違えて一斗五升というお餅を作った。お鏡さん。ところが見てごらん。うちの三宝は大きいからぴたーっとあれで合おうがて、私が。言うならいつもの御大祭の倍のおかげをやろうぞと神さまは言うてござるとよと私が。だからあんたがね、そのぶりでも鯛でも金銭の事でも言いなさんなと、私が申しました。
 ね、とてもそれでも無い、とてもその当たる所だけは当たったちいう訳です。それで先生、もう最後の切り札、あのすいませんけれども伊万里の竹内先生に電話かけますち言う。なしやと言うたところが、市長さんの名に於いてですね、あちらの料亭に入っておる魚を押さえてもらおうと思うと、こう言う訳です。ほいで私が、あんた馬鹿じゃなかのち私が申しました。何の為に、なるほど市長さんいやでけるかもしれんけれども、自分をそれで責任回避するところかと私が。そげなこつじゃでけん。
 もし万一、無かったら、腹でも切らにゃんちゅうごたる気持ちで、今から博多へ行きなさいち、私が申しました。私もお願いをする。だからちもうちったこう、腹立てたごたある腹かいとりゃせんばけれど、もう、やられたもんですからね。もうそのまま博多へ行きました。そしたら、昨日の朝の御祈念の後に、ニコニコしてやって来ましたでしょうが。先生、もうそりゃそりゃもう、広大なおかげ頂いて、当たるとこだけ当たっとった。ところがやっぱ博多にも、昨日は無かったわけですよ。
 だから有ったのはねもうあるのはもう、福岡のものにも出さずに、東京に送るんだそうですね航空便で。ちゃんともう荷づくりがでけてからですね、もう東京に送る寸前じゃったち。そして、こういう活き鯛は、今までかって見た事がないち、魚屋が言うごたる活き鯛でした。私また御直会頂いてから、初めてあんなあのカチカチするような鯛やらぶりやらのお刺身頂きましたね。確かに生き鯛だったと思います。ね、
 ブリやなんかちゃんと、あれはそのかわり、二本がひと箱になっとるそうですね、もうちゃんと荷造りしてある。だから一本それだけ。ふんならそれは自分がもらいますというて、あの東京送りにするばっかりのつを持ってきたんですよ。もうほんとに親先生、気合入れられとらんなら、もう私はね、本当に神さま疑う事になっとったとこういう。これでおかげで私自身もおかげ頂いたと。いや神さまを信ずる、ね、
 いうならば信じて疑わない稽古を私がさせたわけになるわけでしょうが。折角お互い信心させて頂くのですからね、信心して霊験の無き時は、是ぞ不思議なる事なのですから、ね、信じて疑わない稽古を本気でさせて頂かなければならん事が分かるでしょう。同時にいわゆる姿勢です。どうでもと、もしこれをおかげをうけられなかったら、自分は腹でも切らんならんという位な一生懸命のものなんです。
 ね、昨日、あの前夜祭の晩に、博多に一時に着いたそうです、朝の一時に。その三時までの間に出来たんです。もうちょっと遅かったら、もうあちらの航空便ですかね、飛行機であちらへ送るばっかりの寸前のところを押さえてもらっておかげを頂いたと。もう本当に、この魚持って帰らなかったら腹切らんならんちゅきもちでやっぱいっとる。だから、どうでもこうでもという信心の、いわゆるおかげを頂くときに、そういう姿勢が要るのですよ。お願いしとるけんどうとかなろうと。
 おかげが、だから、おかげ受けられんなら、これは不思議なことだからです、自分の信心の願いの筋が間違うとりゃせんか、ね、改まりが間違うとりゃせんか、本気での姿勢というものがです、どうしてもですね、皆の心が緩むと、例えば特に病人なんかの場合なんか、どうでも助けてもらわんならんと、言いながらですねぇ。これは、とても今度は、難しかろうと願う者は思うとるです。心の中に。
 ですからそれをですね、それをその信ずる力にこの押しせばめていくという事は、大変やはり難しい事なんです、ね。けれどもそういう精進がなされなきゃならん。勿論信心してと、こうおっしゃるのでございますから、ね、果たして例えば、ね、言うなら我情欲の事をですよね、願わせて頂いて、どうしておかげを受けられんじゃろうかという不思議を感ずるような事ではない事が分かりますね。
 そこで私共が神さまを信じて疑わんで済む、いわゆる心をいわゆる確信を持てれるおかげを頂く事の為にです、ね、どうでもこれなら、絶対間違いがないという事を願わにゃいけんという事です。ね、例えば、私がいつも申します。毎月の御本部参拝、毎月月参りをさせて頂いた。もうこれは、どんな事があっても、絶対だとこう私は思うて神さまに願ってあるんですからねぇ。おかげを受けたんです。ね、
 もういわゆる御本部参拝という絶対のものでしょうが、間違いのないものでしょうが。私共がね、御本部を御霊地御霊地金光さま金光さまと、言うて、いわゆる憧念心を燃やしきっておりますもん。御本部に対する憧れの念というのが。ね、それを神さまは聞いて下さらんはずがない。だからこれなら神さまが間違いがないという願いをひとつ、ハッキリしなきゃいけません。
 今度も御大祭にですね、幾人もの方のお取次をさせて頂きましたがね、どうでも大祭には、これこれのお供えをさせて頂きたい、願い。こと大祭ですからねぇ。絶対のものですわ。それを、お取次頂く私の方がびっくりする位。あんたがそげな、そげん無理する事いろうかいちいうごたある感じでした。ね、それが皆おかげ頂きましたよ。さあ、お供えの事じゃけ、誰々と言われんから本当に残念ですけれどね。
 とても、あなたが、あなたそげん米一俵もお供えする事がいろうかいち思おうごたる人。あなたがとても今、金の十万円もお供えするてんなんてんそげな無茶な事言うてと言う人が、お願いしておかげを頂いたんですから、事実。だからね、おかげを頂く、これは絶対、もうこれはもう、御大祭という絶対のものに向かっての願いなのですから、神さまはおかげ下さらんはずがない。そこで生まれてくるのはです、米一俵の人なら米一俵がたの確信が頂けただろう。
 十万円の人であるなら金十万円がたの確信がでけたと私は思うです。お繰り合わせ頂いたなら参ろう。お繰り合わせ頂いたならばお供えしょう位の事ではね、それは成程頂くかもしれません頂きましょう。けれどもね今日私が言う、神さまを信じて疑わないという信心もですね、確固たるものにしていく事の為には、その稽古が必要なのですよ。その間にはですこれはやっぱ神さまは、おかげ頂かせきらっしゃらんとじゃなかろうかというようにです、私の傷の場合です。
 もうここまでおかげ受けた。なる程どれだけでんおかげ頂くんだなあと、もうややそういう信じる心が出来てきて、もうつうがとれてすぐ、これはおかげ頂いたと思う寸前にですね、いわゆる化膿しだした。そこで私がグラリしとったら、私は、私のいわば確信は、生まれなかっただろうと、こう思うですね。やっぱこげな怪我した時には、やっぱ薬でなからにゃいかん。いわゆる化膿疾患に効く薬なっとん付けにゃいかん、ちゅうごた事になったでしょう。けれども。
 そこをまあいっちょ押して、それはひと月もかかりましたけれどもです、ね、神さまのおかげでなからなければ、ようならんちゅう確信を持ってですね、その事に取り組むだけの修行とか、その姿勢、精神が必要なんですよ。あっちにも頼んどる、こちらにも願う、そして神さまにもお願いしとくてんなんてんというような事で、本当の確信が生まれるはずが絶対に有りません。おかげは受けていっても、力にはならんです、それでは。だから、そういうひとつの確信的なです。
 神さまを信じて疑わない力を頂かせて頂く為の稽古。初めは、自分の事の場合はね、我情我欲が入っている事が多いのですよ。そこでこれならば間違わないという、ね、例えば御本部参拝とか、御大祭とか、ね、そこに筋の立った、これならば絶対といったような事柄からです、そういう願いを立ててみる事なんです。しかもお願いをさせて頂いたなら、どうでもこうでも、もし旅費がおかげ頂けんなら、歩いてでも参るという位な、私はその、ね。信心の姿勢というものがなからなきゃならない。
 そこに神さまはもう絶対と、言えれるだけの信心が生まれてくるのですよね。私共、信心させて頂く者は教祖の御教をね、確信するというところから、安心の生活が生まれてきます。神さまは、ううだこつもおっしゃっておらん。教祖さまは、いい加減な事は決しておっしゃってないんだと、まず信ずる事。そして、信心して霊験のあるを不思議とは言うまじきものぞ。信心して霊験の無き時は、是ぞ不思議なる事ぞというですね。
 もし受けられなかったら、こちらの信ずる心が足りなかったんだとして、詫びていくより他にない。おかげが受けられなかったら、いわゆる神さまの願いと私共の願いとの願いの食い違いがあったんだと、知るより他にはない。そして、そこを改め改めしながらです、ね、いよいよ神さまを信じて疑わない信心、又は、疑わないですむ神さまを信じての真の信心生活が出来るおかげを頂かなければならんと思うですね。
   どうぞ。